【売却体験談】あえて高く売らなかった ― 選択と集中のために2ヶ月で事業譲渡 on the bakery 井戸裕哉氏
- 業種
- SaaS(インフルエンサー管理ツール)
- 年商
- 非公開(従量課金・大手企業中心)
- 譲渡形態
- 事業譲渡
- 譲渡価格
- 非公開(相場より抑えた水準で提示)
- 所要期間
- 約2ヶ月

「もっと高く売れたはずでは」と思われる話です。井戸裕哉さんは、意図的に相場より抑えた金額で提示しました。
相手に高値掴みをさせたくないですし、その後の関係も良好であることが、会社自体を発展させていく上で必要だ
1.2倍を狙うくらいなら、このくらいの価格で、という思いがそもそもあった。そして2ヶ月で成立しています。なぜその判断になったのかを伺いました。
パン屋の上で始まった会社
社名の由来がそのままです。
3年前、1人パン屋さんの上のコワーキングスペースで起業した
2021年11月創業。新卒で野村證券を経験した後、ベンチャーでWebマーケティングコンサルタントに転身した井戸さんが、営業・マーケ出身の自身とCTOを含む3人で立ち上げました。事業はツール開発です。SNS・インフルエンサー領域の出身メンバーで固めたため、最初のプロダクトもその領域でした。
譲渡したのは「インフルエンサーフォース」。名前の由来はSalesforceで、同じように管理しやすいプロダクトという意味です。インフルエンサーとのプロジェクト進行管理、システム上での連絡、支払い通知の管理を一手にできるSaaSでした。開発は2年前。立ち上がりは順調ではありません。
なかなかうまくいかなかったので、資金繰りが結構厳しくて
リリース当初はマーケティングや営業にかけるお金がなく、細々と顧客を開拓していった。ただし、その初期に開拓した顧客が結果的に最後まで残りました。従量課金モデルで、顧客の中心は大手企業。1社が10社分ほどの発注をするケースもあったといいます。
売った理由 ―― IPOに向けた選択と集中
譲渡の動機は明快でした。選択と集中。ベンチャー企業なので、お金も人も限られたリソースの中でやる。そして、領域への判断があります。
僕らがIPOを目指していく時に、このインフルエンサーの領域は正直厳しいなと思っておりました
大手企業が既存事業と掛け合わせればシナジーはあるかもしれないが、ベンチャーがここから成り上がっていくときに、インフルエンサーのプロダクト一手で勝負するのは厳しい。一方で、3番目に作ったガチャ・診断ツール(クロワッサン)が急伸していました。だから、リソースをそちらへ寄せる。
「うまくいっていないから売る」ではなく「勝てる場所に集中するために売る」。 この整理ができていると、価格以外の条件で判断できるようになります(会社を売るメリット、株式譲渡と事業譲渡の違い)。
判断の背景には、先輩起業家からの助言もありました。吉岡氏に相談する前に、周囲の先輩起業家に話を聞いている。インフルエンサー領域のプロダクトはM&Aの流れが来ていること、トレンドとして売れるタイミングで高すぎない金額で出すことの重要性、そして起業家としてM&Aを一度経験しておいたほうがいい、というアドバイスを多くもらったといいます。
なぜ高値を狙わなかったのか
理由は、事業譲渡という形式そのものにありました。今回は会社売却ではなく事業売却で、会社は存続し続ける。つまり、譲渡後も自分は同じ業界にいます。この事業を譲渡した企業は、自分たちがIPOを目指す過程で引き続き付き合う可能性が非常に高い。
ITの分野は広いようで狭い界隈でございますので
だから、売却先に高値掴みをさせて関係が悪化するくらいなら、1.2倍を狙うくらいならこの価格で、と結論づけます。
会社ごと売って業界を離れるのか、事業だけ売って業界に残るのか。 この違いが、価格の詰め方そのものを変えます。残る側にとって、譲渡先は今後の取引相手や競合になり得ます。
なお、進め方も一貫していました。
初めに「この金額で売れたらすぐ売ります」と相談した金額のまま進んでる
想定外はほとんどなかったといいます。ポジティブな意味での想定違いは——
「あ、こんなに早く進むんだ」ということだけ
2ヶ月という速さ ―― その内訳
トップまで話した会社は4〜6社。そこから2ヶ月で成立しています。吉岡諒氏(ウィルゲート専務取締役COO)が、自社の実績と比較していました。ウィルゲートが手がけた69件のうち、2ヶ月以内で決まったのは5件、2ヶ月から4ヶ月が19件。4割が4ヶ月以内、7割が半年以内。今回はかなり早かった。
速くなった要因は2つと分析されています。井戸さんの意思決定基準が「選択と集中のために早く次に集中したい」だったので——
一定のラインを超えたオファーが出れば行くぞというところで、井戸さんの即決が早かった
通常は粘って粘って、たくさんの会社から意向表明を集め、もっといい条件はないかとやる。
目的が「最大化」なら時間はかかり、目的が「次への集中」なら速く決まります。 どちらが正しいかではなく、何を優先するかを先に決めておく話です(M&Aにかかる期間)。
デューデリジェンスが軽かった理由
DDは想像より簡易的でした。決算書類を含む必要書類のやり取りはあったが、いわゆるイメージされるようなDDではなかった。業務をしながら進めなければならない状況だったが、負担になるものではなかった。
すごい気構えてましたけど、なかったです
理由は3つ挙げられています。1つ目、事業譲渡で人が伴わなかったこと。吉岡氏によれば、人がたくさん伴うと労務面の確認やキーマン面談が発生し、顧客数が多ければ契約書の数も多くなる。今回はそこがシンプルだった。2つ目、金額が極端に大きくないこと。3つ目、買い手がM&Aに慣れていたこと。
譲渡先はFUNDiT。IT領域のロールアップM&Aで知られ、3年間で100件以上の実績を持つ会社です。買い手側も勘どころが分かっているので、スムーズに進んだ部分が多い、と。
買い手の経験値は、DDの重さと期間を大きく左右します(デューデリジェンスで何を見られるか)。
引き継ぎも軽かった
譲渡から1ヶ月ちょっとの時点で、引き継ぎはほぼ完了していました。方法は、チャットで連携しつつ、顧客ごとに3社ミーティングを設定するというもの。引き継ぎ直後は売り手側もフロントに出て対応し、約2ヶ月で完了する見込みでした。大企業が顧客とはいえ数が多くないので、負担の大きい引き継ぎにはなっていない。
基本的にプロダクト開発の会社で、プロダクトを売却しているので、人に何かがついてしまっている状況ではない。だから引き継ぎは早かった、と。
プロダクトを売るのか、人に紐づくサービスを売るのか。 この違いが、ロックアップの長さにも引き継ぎ期間にも直結します(PMIで何が起きるか、売却後に何が変わるか)。
仲介との出会い方
依頼のきっかけも、M&Aとは無関係でした。吉岡氏との関わりは緩くあり、何か一緒に仕事をしたいと思っていた。もともとはクロワッサンのBtoBリード獲得について、吉岡氏側が営業をしていた場でした。その打ち合わせの中で「実は」と相談が出ています。吉岡氏の補足が的確でした。
普通の仲介会社って相手と会う理由が「会社を買うか売るか」みたいな理由でしか会わないんですけれども
ウィルゲートの場合はSEOやソーシャルセリング、プロ人材の採用など、企業とのタッチポイントが多い。
「M&Aの相談」という入口は心理的に重い。 別の接点があるほうが、実際には相談が始まりやすい、という指摘です(仲介会社の選び方)。
この記事のポイント
- 「うまくいっていないから売る」ではなく「勝てる場所に集中するために売る」という整理がある
- 会社ごと売って業界を離れるか、事業だけ売って業界に残るか。 残るなら、譲渡先との関係が今後も続く
- 業界に残るなら、高値掴みをさせないことが自分の利益にもなる
- 目的が「最大化」なら時間がかかり、「次への集中」なら速く決まる。先に優先順位を決める
- 事業譲渡でも、人が伴わなければDDは軽くなる
- 買い手のM&A経験値が、DDの重さと期間を左右する
- プロダクトを売るのか人に紐づくサービスを売るのかで、引き継ぎの重さが変わる
- 「M&Aの相談」という入口は重い。別の接点から始まる相談のほうが多い