【売却体験談】「買い手はバカじゃない」― Dineを譲渡した上條景介氏が語る、買い手目線の作り方
- 業種
- IT・マッチングアプリ
- 譲渡形態
- 株式譲渡(100%・現金)
- 譲渡価格
- 非公開
- 所要期間
- 約8ヶ月

M&Aの相談で最も多い問いは「いくらで売れますか」です。上條景介さん(株式会社Mrk&Co創業者)は、その姿勢そのものに疑問を投げかけます。
起業家側としては「いかに高く売るか」みたいな、とりあえず売りつけるみたいな感じで考えて「どのくらいで売れますかね」という相談に来ることが多いんですけども、買い手もバカじゃないというのは、ちゃんと考えなきゃいけなくて
マッチングアプリ「Dine」を運営し、2024年に株式会社クラウドエヌへ譲渡。現在は買い手側の取締役を務める立場から、買い手が何を見ているかを語っていただきました。
「生協の白石さん」からDeNA、そして独立
経歴が少し変わっています。大学時代、自分の大学の生協職員を取り上げるブログを開設したところ大ヒットし、書籍化されて100万部近く発行されました。ブログを開設して世の中に広めたのが自分で、そこから出版社に声をかけられた、という関わり方です。
2008年に新卒でDeNAへ入社し、ソーシャルゲームやカナダスタジオの立ち上げに携わります。8年ほど在籍したのち——
元から独立しようと思って入っていたので、30歳の誕生日を前に退職して独立
2015年、株式会社Mrk&Coを創業しました。
最初のリリースは、日本ではなくアメリカとカナダ
創業時から手がけたのがマッチングアプリ「Dine」です。特筆すべきは、最初の市場でした。2015年のリリース時、日本ではなくカナダとアメリカで出している。どうせやるなら世界で勝ちたい、消費者向けビジネスで世界で勝つにはアメリカで勝つしかない、という理由です。
結果としては、世界展開は思うようにいきませんでした。しかし2回目の資金調達で1億円強を得たタイミングで日本でも展開したところ——
日本を始めたら、むちゃくちゃ数字が良くて。相対的に日本が圧倒的に良かったので、日本にリソースを割いた方が経営としていいよね、と
創業3年後には日本市場がメインになっています。
Dineが解こうとした課題
サービスの設計思想も、売却の判断につながるので触れておきます。一般的なマッチングアプリでは、マッチしてから実際に会うまでに1〜2週間のメッセージのやり取りが必要だといいます。テキストだけで相手に魅力を感じてもらい、会いたいと思ってもらわないと会えない。しかし人には得手不得手がある。
話すとむちゃくちゃ面白い人がいるかもしれないんだけども、その人がメッセージはすごく苦手かもしれない。実際にお付き合いする相手はリアルな人間なのに、メッセージの評価だけで相手を落としていたらすごくもったいない
そこでDineは、マッチする前に「この飲食店に一緒に行きましょう」を合意しておく設計にしました。相手が挙げている店のリストから選んで誘い、OKが出ればマッチ成立。あとはボタン一つで店の予約まで完了する。メッセージという工程そのものを外したわけです。
売却を決めた理由 ―― 広告の殴り合いから降りる
創業10年目に売却を検討した理由は、市場構造にありました。マッチングアプリ市場は、就職サイトや結婚情報サービスに似ていて、常に顧客が入れ替わるサービスです。料理メディアなら一度使い始めた人は使い続けるが、マッチングアプリは目的を達成すれば「卒業」する。だから常に新規顧客を取り続ける必要があり、ユーザー獲得は広告合戦になる。広告合戦で強いのは、予算のある大手です。
10年で市場は予想どおり拡大しました。しかし先行するペアーズ、Omiai、タップルといったサービスが上位を占め、ここから自社サービスがトップギアに入るには、自力の成功法では無理だと判断した。つまり売却の動機は、広告以外の顧客獲得手段を得ることでした。事業を伸ばす手段としてのM&Aです。
なお、コロナ禍では最大級のダメージを受けたといいます。食事を前提としたサービスだったためです。
進め方 ―― 100社リストから、10社と会う
相談先は、以前からの知り合いでした。年に1回ほどお茶をしてアドバイスをもらっていたM&A仲介の社長に、2023年の秋ごろ「売りたいと思うんだけど」と相談したところから始まっています。そこからは早い。
- 仲介会社が候補先を100社ほどリストアップ
- 一緒に見て「ここは可能性あり」と絞り込む
- 実際に会ったのは10社ほど
- 複数社から意向表明を獲得
- 2023年9〜10月に相談開始 → 2024年6月に完了(半年ちょっと)
譲渡額は非公表ですが「そんなにむちゃくちゃ大きい金額ではない」とのこと。100%現金での譲渡でした。選定の軸は、自社サービスをどう大きく伸ばせるか。最終的な決め手も、一番伸ばせそうだと思えて、かつ一番条件が良かったこと、という順番でした。
難しかったことを聞かれ、上條さんは「興味を持ってもらう努力」を挙げています。スタートアップの資金調達と同じで、候補が何十社いても全員が興味を持ってくれるわけではない。そこが大変だった、と。
なぜその仲介を選んだか
比較検討はしたものの、決め手は信頼感だったといいます。安くない仲介手数料を払うので、自分の中で一番信頼できる人の会社に頼みたかった。かつ、その会社はIT専門で領域的にもフィットする。マッチングアプリという領域に明るい仲介は限られます。業種を理解している担当者かどうかは、価格に直結する部分です(M&A仲介会社の選び方)。
「50・13・6・3・1」
吉岡諒氏(ウィルゲート専務取締役COO)が示していた目安が具体的でした。
| 段階 | 社数 | 開示する内容 |
|---|---|---|
| リストアップ | 50社 | ノンネームシート(社名を伏せた1枚) |
| 詳細開示 | 13社 | 秘密保持契約を結び、業績などを開示 |
| トップ面談 | 6社 | 経営者同士が会う |
| 意向表明 | 3社 | 価格と条件の提示 |
| 基本合意・成約 | 1社 |
3社から意向表明が集まるとオークション的に金額が上がる。そのために最低でも6社はトップ面談したい、という設計です。上條さんのケースは10社と会っており、この形に近い。1社しか意向表明がないと選択のしようがなく、複数あれば金額も上がりやすく選べる立場になれる(ノンネームシート・企業概要書(IM)とは、M&Aの進め方 全9ステップ)。
自分で探すか、仲介を使うか
上條さん自身、「自分でアプローチする方法も取れる」と認めたうえで、仲介を使ってよかった理由を挙げていました。
時間です。
何十社とリストアップして一個一個担当者にアプローチしていくって、結構大変な作業なので、事業をやりながらそれをやると、会社の業績が下がって逆に売れなくなるみたいなこともあると思うので
自分が会社の成長に時間を100%使えたのは、使ってよかったポイントだ、と。
仲介の最大の競合は「創業者自身」
吉岡氏の言い方が率直でした。
M&A仲介の競合がFAとか他の仲介会社だと思ったことなくて、創業者の人がご自分で見つけるというのが一番のライバルだと思ってるんですね
そのうえで、併用という現実的な形も紹介されていました。実例として、創業者が自分で5社、仲介経由で2社、計7社の意向表明を集めたケースがあり、仲介が探してきた2社が一番シナジーもあって一番いいオファーをくれた、と。専任契約を結んでいても、「この3社は主要取引先で前職の先輩だから自分で声をかける」といった切り分けは可能です。ただし重複してアプローチするとトラブルになるため、事前の合意が必須という注意も添えられていました。
売却前の数ヶ月の業績が効く
もうひとつ、見落としやすい指摘がありました。
M&Aで売却する前の数ヶ月間の業績ってすごい重要で、ここが上がり続けていると「まだまだ伸びる会社だ」といいオファーがもらえるんですけれども、急に数字が落ち始めていると、オファー額も良くならない
だからオーナーががっつり事業に入り込んでいる場合は、仲介を使ったほうが数字が落ちにくい、という結論です(売却価格を上げる5つの打ち手)。
ロックアップなし、そして無給での半年
この案件で珍しいのは、ロックアップが一切なかったことです。買い手の代表が「ロックアップで人を縛ってもしょうがないでしょ」というスタンスで、契約書には一切盛り込まれていない。
にもかかわらず、上條さんは残りました。しかも、譲渡後の立ち回りが独特です。買い手の代表・西山氏から「アプリだけでなく、上條さんを含めたDineのメンバーにクラウドエヌの経営も一緒に見てほしい。そうすれば会社全体がもっと大きくなる気がする」と請われ、当初は再び起業するつもりだった予定を変えます。ただし、いきなり役員になることは避けました。
従業員は1,000人ぐらいいるので、その中でいきなり入ってきた新参者が取締役になるのはあんまり良くないなと思っていて。M&Aして最初の半年は無給でボランティアとして色々取り組んで、徐々に皆さんと仲良くなって、ある程度信頼も勝ち取ったところで「じゃあそろそろ就任させてください」と
2025年1月から親会社の取締役に就任しています。売却資金については、お金を使うタイプではないので生活はまったく変わらず、全部インデックスファンドに変わっているくらいだ、と。
契約で縛られていないのに残り、しかも信頼を先に積んだ。 ロックアップの是非を考えるうえで、示唆的なケースです(PMIで売り手社長が果たす役割と引継ぎ期間)。
何が噛み合ったのか
買い手のクラウドエヌは、日本最大級の相席ラウンジ「オリエンタルラウンジ」を運営する会社です。全国と韓国に40店舗弱、月間の来場者は約20万人弱。つまり、広告費をかけずに客が集まる実店舗を持っている。マッチングアプリが広告の殴り合いになっている市場において、これは決定的な意味を持ちます。
2024年11月には、10年間使ってきた「Dine」の名称を「D³」に変え、オリエンタルラウンジの公式アプリとしてリニューアルしています。店舗のメニュー注文などのコントローラー機能と、マッチングアプリ機能を両立させる形です。
吉岡氏はこの組み合わせを、互いの得意領域が重ならないことの強さとして整理していました。買い手が欲しかったのはPLではなく、自社にないケイパビリティ。リアルの店舗設計はクラウドエヌが圧倒的に強いが、アプリでの男女マッチングのノウハウはない。そこにDeNA出身で海外も含めてアプリ事業をやってきた上條さんが入ることで、DX、デジタル化、AI化が加速する、と。上條さん自身も、代表の西山氏が持つ天才的な能力と自分の得意分野が被っていないことが大きい、と語っています。
本題 ―― 買い手の投資回収から逆算する
最後に、この回で最も価値のある部分です。上條さんはまず、売らないという選択肢から話し始めました。利益が十分に出ていて株式もほとんど自分が持っている状態なら、基本的にはオーナー企業でずっと続けるのが一番いい、というのがベース。そのうえで、投資家の意向や資金需要でイグジットが必要なら、上場かM&Aが選択肢に入る。
そして本題です。買い手もビジネスマンであり、ちゃんとした会社であることを忘れてはいけない。
資金調達のバリュエーションとは、まったく別物
スタートアップ経験者が陥りやすい罠として、こう指摘します。資金調達のバリュエーションは、上場を前提としたバリュエーションから逆算して「これくらいならいい」と付くので、身の丈に合っていないことが多い。一方、M&Aで買い手が考えるのは、自社で新規事業をやるよりM&Aのほうが投資回収が早いかどうか。
吉岡氏がこの差を数字で補足しています。
資金調達の場合は10%ぐらいしか取得していない。「この会社は10億の価値があるだろう、で10%、1億出して10%取得します」という形なので、買い手は1億しか出していない。M&Aの場合は100%取得することになるので、それを何年で回収できるかという形になります
だから、事業シナジーを除けば年間営業利益の3〜7倍程度に収まるケースが多い、という相場観が示されていました(会社はいくらで売れるのか、EBITDA倍率で見る自社の相場)。
では、どう組み立てるか
ここが実践的です。相場の倍率では希望額に届かない場合、どうするか。
買い手の気持ちを考えた時には、「じゃああなたと一緒にいたら、今の純利益はこれくらいだけども、あなたと一緒になることによって、この純利益が実は5倍になるんです、買った瞬間から」みたいな、ロジックがきちんと組み立てられると、向こうとしても「確かにそうだね、それだったらこれくらいの倍数で買ってもいいよね」と思ってくれたりする
つまり、高く売りたいと主張するのではなく、買い手の投資回収が早まる理由を提示する。なぜ買い手はあなたの会社を買いたいと思うのか、そしてどうやって投資回収をするのか。その視点を忘れてはいけない、と。
自分が売りたい理由ではなく、相手が買う理由を語れるか。上條さん自身、いまは買い手側の取締役として、まさにその判断をする立場にいます。
この記事のポイント
- 利益が出ていて株を持っているなら、売らない選択肢が基本。 必要が生じたときに初めてM&Aが選択肢になる
- 目安は50社リスト → 13社開示 → 6社面談 → 3社意向表明 → 1社
- 自力で探せるとしても、事業に集中できないと業績が落ち、かえって売れなくなる
- 売却前の数ヶ月の業績が、そのままオファー額に反映される
- 買い手が欲しいのはPLではなく、自社にないケイパビリティ
- ロックアップがなくても残る選択はある。信頼を先に積んでから役職に就くという順序
- 資金調達のバリュエーションとM&Aのバリュエーションはまったく別物
- 高く売りたいと言うのではなく、買い手の投資回収が早まる理由を組み立てる