【売却体験談】仲介を使わず取引先へ売った ― それでも「専門家は絶対に使うべき」 創業手帳 大久保幸世氏
- 業種
- 起業家向けメディア・プラットフォーム
- 年商
- 非公開(会員14万人/ガイドブック累計250万部)
- 譲渡形態
- 株式譲渡(100%・一括)
- 譲渡価格
- 非公開
- 所要期間
- 約4ヶ月

仲介もFAも入れずに売却した。そう聞くと「自分でもできそうだ」と思うかもしれません。しかし当の本人が、はっきり否定しています。
自分が使わなかったっていうのは、自慢して真似しましょうみたいなことではなくて、あんまり参考にしないでちゃんと使った方がいいと思います
なぜ自分は使わなくてよかったのか。そしてなぜ人には勧めないのか。ここに、仲介を使うかどうかの判断基準が詰まっています。
起業したら自動的に届く冊子
大久保幸世さんが2014年に創業した創業手帳は、独特のモデルです。会社を設立すると、起業直後に必要な情報をまとめた120ページほどのガイドブックが自動的に届く。政府のデータと連携し、大手会計ソフトやメガバンクとも接続することで成立している仕組みです。累計発行は250万部に達しています。
出発点は、身の回りの声でした。
同じ話を100人ぐらいから聞かれたんですよ
社会保険はどうするのか、税務署にはいつ届出をするのか。先に知っておけばいい話ばかりが繰り返し聞かれる。ならば日本全体ではどれほどの需要があるのか。調べると、毎月1万社が生まれていました。
収益は広告ではありません。会員登録の際に、業種や状況を入力してもらい、その人に合うサービスの資料請求が発生した分だけ事業者から課金するという設計です。会員は14万人規模だといいます。
前職はライブドア、その後GMOメイクショップの取締役。そこで得たものをこう表現しています。
一番得た経験というとやっぱりスピードだと思ってまして、同じことでも2倍時間かけると2倍コストかかる
自己資金を投じ、創業から半年ほどで全設立企業への配布を実現しています。そして2025年8月、弥生株式会社が発行済株式の100%を取得し、完全子会社となりました。金額は非公表です。
「M&Aという切り札を持っていると攻められる」
この記事で最も示唆的な考え方です。創業手帳には、早い段階から複数社からM&Aの打診が来ていました。大久保さんはそれを、リスクを取るための担保として使っています。
ある程度そのM&Aという形の出口が多分あるだろうと踏んでいて、しかも複数ですね。だから行けるとこまで行こうという
一発外したら終わり、という立ち上げ方をしながら、同時に出口の目算を持っていた。攻める人にとっては、そういう出口もあると頭に入れておいてアクセルを踏みまくる、というやり方があるのではないか、と。
M&Aは撤退の手段としてだけでなく、攻めるための保険にもなるという見方です。これは廃業や後継者不在の文脈で語られることの多いM&Aとは、まったく別の使い方です(会社を売るメリット)。
なぜ仲介を入れなかったのか
売却先の弥生は、10年来の取引先でした。こちらも相手を知っているし、相手もこちらをよく知っているところからスタートした、かなり特殊なケースだと本人は言います。
大久保さんは、仲介・FAの価値を2つに整理しています。1つ目は相手を探してくること。 このケースでは相手が最初から決まっていたため、必要ありませんでした。2つ目は不慣れな売り手を支えること。 M&Aを何回もやっている人は珍しく、多くの人は分からないし不安。そこを手慣れた会社がサポートしてくれる価値がある。
ここについては、自分は例外だったと説明しています。理由は3つ。
- 相手を10年知っていた
- 自身にとって2回目のM&Aだった(過去に創業手帳のサブ事業を、プライム上場企業である鎌倉新書へ譲渡している)
- ライブドア、GMOというM&Aが日常的にある環境でサラリーマン時代を過ごした
そのうえでの結論が、冒頭の言葉です。
初回の方っていうのは、やっぱり初回って失敗しがちだと思うので、専門家で慣れてる方は絶対使うべきだと思います
「仲介を使わなかった成功例」は、仲介不要の根拠にはなりません。 むしろ、どういう条件が揃えば自力でやれるのかを示している例として読むべきです(仲介とFAの違い、仲介会社の選び方)。
11年前から、出口を見越して会社を作っていた
もうひとつの核心が、準備の考え方です。創業手帳は、M&Aやイグジットをある程度見越して会社を作っていた。いろいろなデータや社内の資料が、いつでも出せるように最初から整備していた。属人性についても徹底していました。
誰かにすごく依存して、その人が抜けると困ってしまうというモデルを徹底的に排除する
人に紐づく部分はどうしても出るが、それを排除し、社内のいろいろなものを仕組み化していく。そして、この一言が重要です。
M&Aのために資料を揃えるとか対応するんじゃなくて、もう最初からそれでずっと行けると。M&Aするから資料を作るとかになると、良くないというかうまくいかない
売却が決まってから整えるのでは遅い、という主張です。決算書、契約書、業務フロー、顧客データ。これらが常に出せる状態にあることは、デューデリジェンス対応の負担を下げるだけでなく、そもそも会社の値段そのものを上げます(売却前に売り手がやるべき準備、デューデリジェンスで何を見られるか)。
体制面でも意思決定の速さを優先していました。社内役員は本人のみ、社外役員は外部という構成。社員は約20名で、コア業務のみを社員が担い、あとは業務委託と自動化で回す形です。結果として、想定外はほとんど起きず、淡々と粛々と進んだといいます。
交渉のやり方 ―― 競らせなかった
複数の候補がいながら、大久保さんは価格を吊り上げていません。重視していたのは、統合したときにシナジーが生めるかどうか。基準は2つでした。お互いを知っているので先の展開が読みやすいこと。そして、くっついたときに価値が増えること。競らせて釣り上げることはせず、自分がOKだと思う会社の中で、金額で合うところ、一番早いところ、という決め方でした。
そのうえで、評価のされ方についても語られています。吉岡諒氏(ウィルゲート専務取締役COO)が、一般的な中小M&Aの相場(純資産+修正営業利益の3〜7倍)とは異なる評価になったのではないかと水を向けると、こう答えています。
PERとか純資産ではなくて、創業手帳のアカウント数かける、弥生側がどれぐらい価値を伸ばせるのかっていう、全体の生まれる価値を評価していただいたのかなと
シナジーが具体的に読める相手には、相場を超える評価がつくことがある。 逆に言えば、シナジーを説明できない相手に対しては相場どおりの計算しかされません(会社はいくらで売れるのか、高く売るために売り手ができること)。
株主は本人が約90%、創業期に支援した経営者などが1%程度ずつ保有していました。自分の持分が大きかったので、大きな反対はなく合意が取れた。譲渡は100%を一括で、2段階は選んでいません。次の挑戦をするときに綺麗にしたかったからです。期間は、話が始まってからクロージングまで約3ヶ月、手続きを含めて3〜4ヶ月でした(M&Aにかかる期間)。
補足 ―― 100%譲渡+アーンアウトの落とし穴
ここで吉岡氏が、税務上の注意点を挙げています。ロックアップが2年、3年と長くなるなら、残って頑張った分の見返りがあったほうがよい。その手段として100%譲渡+アーンアウトを選ぶケースがあるが、アーンアウトだと分離課税ではなく総合課税になって所得扱いになり、税率が高くなる。そのため、100%譲渡+アーンアウトよりも、7〜8割を手放して2〜3割を残す形のほうが有利になり得る、という指摘でした。死んだ魚の目で3年間最低限やる、という形になるのはよくない、と。
同じ「頑張った分をもらう」でも、株式で残すか追加報酬でもらうかで手取りが変わります。 ただしアーンアウトの課税上の扱いは契約の組み方によって判断が分かれるため、必ず税理士に確認してください(会社売却でかかる税金、手取りシミュレーション)。
売却後 ―― 振込詐欺を疑われた話
入金後の実話が語られています。少数株主へ送金するため、経理担当者とメガバンクの窓口へ行ったところ——
お金があまり入っていない口座に突然大金が振り込まれて、すごい勢いでお金を払いまくってるので、振り込め詐欺と間違われたらしくて
何人もの行員が出てきて怪しまれ、「これは何のお金ですか」と説明に40分以上かかった。ようやく手続きを終えて出てくると、今度は同じ銀行の担当者が「このお金を運用しましょう」とすごい勢いで営業してきた、という顛末でした。
「もっと早く売ればよかった」
最後に、後悔として語られた点です。
もっと早くやっときゃよかったと、早くやっとけばよかったと思ってまして
理由は金額ではありません。少ないリソースの中で問題を解決しようとして悩んでいたことが、もっと早くM&Aしていれば、もっと楽に早く解決に到達できたのではないか。ベストタイミングを尋ねられ、「数年前でもよかった、3年前でもよかったかもしれない、もっと早くてもよかった」と答えています。
実際、統合後には自力では解決できなかった課題が動き出したといいます。弥生側にはもともと創業手帳のメディアでこういうことをしたいと考えていた人たちがいて、いろいろな人が来てリソースを投下してくれた。自分たちではなかなか解決できない問題が、話としていきなり解決するようなことが色々できた、と。
また、オーナー社長特有の不安からも解放されたと述べています。日本でもし何かがあったらどうしよう、海外に行っていておかしくなったらどうしよう、という不安。現在は米国での新事業(英語圏向けAIアプリ)を準備しており、M&Aの話が本格化する前から毎月シリコンバレーに通っていたそうです。
ただし、この「早く売ればよかった」には反論も添えられていました。吉岡氏の指摘です。早くやっていればよかったというが、早い分、売上利益が小さくなるので、キャッシュインする金額も小さくなる。
早く売れば楽になるが、金額は下がる。 このトレードオフは避けられません。大久保さんのケースは仕組みで回るビジネスだったため例外的である、という整理でした(会社を売るタイミング)。
この記事のポイント
- M&Aは撤退手段だけでなく、攻めるための保険にもなる。 出口の目算があるからリスクを取れる
- 仲介を使わずに済むのは、相手が決まっている・自身に経験があるという条件が揃った場合だけ。経験者本人が「初回は絶対に専門家を使うべき」と述べている
- 資料はM&Aのために作るのではなく、最初から出せる状態にしておく。 決まってから整えるのでは遅い
- 属人性の排除は、価格だけでなく100%譲渡という選択肢そのものを可能にする
- シナジーが具体的に読める相手には、相場(純資産+修正営業利益3〜7倍)を超える評価がつくことがある
- 長いロックアップなら、100%譲渡+アーンアウトより株式を一部残すほうが手取りで有利になり得る(要・税理士確認)
- 「早く売ればよかった」は本音だが、早いほど金額は小さくなるというトレードオフがある