【売却体験談】「売りたくない時こそ売り時」8回のM&Aを経験した一戸健人氏
- 業種
- 人材・HR/不動産
- 譲渡形態
- 事業譲渡(子会社化して譲渡)ほか
- 譲渡価格
- 非公開(累計調達額2.5億円を下回る水準)

M&Aの記事はたいてい「高く売れた」話で終わります。この回は違います。
一戸健人さん(ICHINOHE HOME代表)は、累計8回のM&Aを経験しています。ただしその多くは、順調に伸びた事業を高く売った話ではありません。上場を目指して2.5億円を調達し、シリーズAに届かず、調達額を下回る金額で事業を手放した経験を含みます。
そこから導かれた最大の教訓が、これでした。
M&Aするなら、自分が売りたいなと思った時では、ちょっと遅いかもしれない
副業解禁の年に立ち上げた「Kasooku」
2017年、副業解禁が話題になった年に独立します。新卒からIT業界でHR領域、特に顧問サービスに携わっていました。
始めたのは副業のマッチングサービス「Kasooku」です。着眼点は明快でした。元リクルートや元大企業役員の顧問料は月30〜60万円。それなら現役のリクルート社員が10万円で副業してくれたほうがよいのではないか、という発想です。
当時の副業は怪しいものが多く、大手企業に勤める人が手を出しにくい状況でした。そこにきちんとしたスタートアップの求人を集める。副業を試して合えば転職につながる、インターンのような役割です。登録した副業希望者は累計3万人ほど。集客は成功していました。
しかし、儲からなかった
問題は単価でした。
50万の利益は割と取れると思うんですけど、10万円のマッチングフィーって本当に微々たるもの
いいサービスだと今でも思っている。しかし儲かりにくい構造だった、というのが本人の総括です。
調達は、サービスを作る前に
一戸さん自身にVCで投資側にいた経験があり、資金調達はサービスを作る前から動いていました。会社設立から3ヶ月ほどで調達し、累計2.5億円。プレシリーズAは1.9億円のバリュエーションでした。コロナで一度ダウンラウンドを経験したのち、15億円のバリュエーションでシリーズA(3〜5億円)を目指して動きます。
しかし届きませんでした。組織づくりに苦戦し、もう1人の役員が退職し、それに引っ張られて人が辞め、新しい取締役が入ってカルチャーが変わる。そうした状況が重なっていました。
断られた出資を、売却の提案に切り替えた
譲渡先となったユナイテッド社は、もともと出資の検討先でした。いくつもの会社に検討してもらったなかで、いちばんいい関係が作れそうだと感じていた相手です。ところが最後の最後に「難しい」という回答が来ます。
普通ならここで終わります。しかし一戸さんは諦めませんでした。
「いや、もうユナイテッドさんだったら売ってもいいんですけど、売却の方向でバリエーションもこういう感じでどうですか」というのでご相談して
なぜこれが通ったのか。出資は、たとえば企業価値10億円に対して1億円を出して10%を取得する話です。一方、譲渡なら同じか近い金額で100%が手に入る。買い手にとっては、まったく別の投資判断になります。
1回断られたものを、もう1回告白して
出資を断られたことは、譲渡を断られたことを意味しません。調達がうまくいかない会社にとって、そのまま使える視点です。
なぜ「会社ごと」ではなく「事業譲渡」だったのか
会社を丸ごと売らず、Kasookuを子会社化してから、その子会社を譲渡しています。理由は株主でした。
会社(ごと)だと、株主が全員損しちゃうバリエーションになるってことですね
譲渡額は累計調達額の2.5億円を下回っていました。会社ごと売れば全株主がマイナスになる。そこで株主を説得し、「もう一度チャレンジしたい」と伝えて事業譲渡の形にしました。
この形にしたことで副次的なメリットもありました。事業譲渡なので法務DDがなく、スピーディに進み、雇用も守られた。法人はそのまま残り、譲渡代金を元手に次の挑戦へ向かう。株主は株主のまま残ります(株式譲渡と事業譲渡の違い)。
もっとも、全員が納得したわけではありません。「それを売るなら、ダウンラウンドでもいいから買い戻したい」という株主もおり、その分は売却益から買い取っています。上場企業の株主は事業シナジーで出資しているため、譲渡には株主責任の説明がつかない、という事情もありました。それでも大半は「もう一度頑張れ」という応援だったといいます。
第2章 ―― 北海道でのフルリモート、そして買収
譲渡代金を元手に、地元・北海道の室蘭へ本社を移します。32歳でした。
始めたのはフルリモートの人材紹介です。副業マッチングの経験から、「フルリモート」という条件で人が集まることを知っていました。地方には、子育て中の母親やリタイア層など、そのエリアに仕事はないが非常に優秀な人がいる。
キャリアアドバイザーの人数が売上に比例するモデルで、毎月1人ずつ増やして15名ほどに。ここまでは順調でした。
そして次の一手として、北海道の派遣会社を買収します。創業者が70歳という事業承継案件でした。その後、3社統合でのIPOを目指す話に乗り、2年ぶりに東京へ戻ります。
そして、うまくいかなかった
結果は率直に語られました。「あんまりうまくいかなかった」と。
理由は3つです。階層が深くなったこと。このフェーズなのに親会社・子会社・孫会社という構造になった。カルチャーが合わなかったこと。平均年齢55〜60歳のベテラン派遣会社と、若手のスタートアップ。そして本体の資金調達が進まなかったこと。これが一番の要因でした。
ただしここでも、株主への責任は果たしています。調達した分は株主に返し、損をさせていません。
「失敗は1個もない」という総括
8回のうち、うまくいったものといかなかったものがあるのでは、と問われると、一戸さん自身は全部うまくいっていると考えていました。
新規事業を撤退するぐらいだったら売却しよう、という発想だったので、売れたサービスは生き残っておりますし。持っていたら清算しちゃう、事業停止にしていたものをお譲りができて現金化できたので、個人的には失敗は1個もない
畳むか、売るか。この比較で考えれば、譲渡できた時点で成功だという整理です(会社を「たたむ」と「売る」はどちらが得か)。
最大の教訓 ―― 「売りたくない時こそ売り時」
もう一度やり直せるなら何を変えるか。この問いへの答えが、この回の核心でした。
一戸さんが一番ピークだったのは、出資の話で調達していた時期です。その時に売却の話があれば、十分なイグジットができていた。しかし当時は「こんなバリュエーションでM&Aはしない、上場したい」と考え、出資に切り替えてもらい、売却の話は断り続けました。
そして2年後。シリーズAで「難しい」となり、ダウンラウンドで延命し、状況は大きく変わっていました。結果、調達額を下回るイグジットになります。
売るつもりがない、売りたくないくらいの時に売っておいたほうがいい。それが本人の結論です。
吉岡諒氏(ウィルゲート専務取締役COO)の補足も、同じ構造を指しています。
会社が伸びてて絶好調な時ほど、本人としては「もっと伸びるから売りたくない」と思うんですけれども、絶好調な時こそやっぱり買い手も欲しい
調子が悪くなって「自分では伸ばしきれないかもしれない」と思った時には、買い手もそれを感じ取る。だから早め早めに動くことが重要になる、という話でした(会社売却のタイミング)。
「難しい案件には、誰も入ってくれない」
相手探しは、すべて自力でやっています。理由がありました。
いい案件は仲介もやる気を出してくれるんですけど、難しい案件は誰も入ってくれない
例えとして挙げたのは転職市場です。転職回数の多い27歳と、大手に勤めて転職経験のない27歳、どちらが欲しいか。ネガティブな売却は仲介にとって旨みがない案件なので、自分が足を動かすしかない。逆にそれができなければ売れなかっただろう、と一戸さんは言います。
相手は、取引先、かつての株主、知り合い、事業を継ぎたいと相談に乗っていた後輩。すべて既存の関係からでした。
法務面も、費用をかけずに補っています。経営者の先輩たちに「この契約書、1時間もらってどう思います?」と何人にも見てもらい、「この条項は普通ない」「ここは注意したほうがいい」という指摘を受けた。無料の法務DDを先輩にやってもらった、という表現でした。もっとも、契約書のレビューは本来、専門家に依頼すべき領域です(最終契約(SPA)の重要条項)。
それでも「仲介は使ったほうがいい」
自力でやり切った人の結論が、これでした。転職エージェントを使ったほうが年収の高い会社を紹介してくれるのと同じで、M&Aも仲介に頼んだほうが自分の知らない会社を紹介してもらえる。そのうえで、自分自身もしっかり動いて条件を引き出す。両方やったほうがいい、という整理です(M&A仲介会社の選び方)。
M&Aと人材紹介は似ている
転職の大量版が会社売却だと思って。人を採用したい会社と、買いたい会社ってほぼ一緒なんですよね
採用支援をしていたからこそ「この会社なら欲しいだろうな」が分かり、自分から売り込めた。買い手が何を欲しがっているかを知っていることが、そのまま相手探しの武器になります(買い手が見つからない会社の特徴)。
いま、買い手がつかない会社の条件
この回では、吉岡氏から市場の現状についても具体的な数字が出ていました。
上場のハードルは上がっています。かつては営業利益1〜2億円で上場できたのが、いまは3億円、5億円でも難しい。その結果、スタートアップからの売却相談はこの3ヶ月で4倍になったといいます。
一方で、買い手がつかない条件も明確です。ウィルゲートM&Aには月100件ほどの相談が来るものの、7〜8割は利益が出ていないか赤字。買い手が求めるのは売上・利益・人材であり、売上が少ない、利益が出ていない、人が伴わない。この3つが続くとほぼ買い手はつきません。
「新規事業でシステムに8,000万円投資したが売上利益はゼロ、このシステムを3,000万円で買ってほしい」という相談は非常に多いが、それは成立しない、という例も挙げられました。
第3章 ―― 建設業界へ
現在は、まったく異なる領域に移っています。ハウスメーカーです。
きっかけは北海道で出会った経営者層でした。東京ではITや人材の友人が多いが、地方では建設業が経済を引っ張っている。そして業界の構造に驚いたといいます。多重下請け、相見積もりが商習慣として嫌われること、担い手の高齢化。建設業は倒産も最多で、人手不足による倒産がもっとも多い業種です。地方では工務店が後継者不足で減り続けています。
巨大な市場はすでにある。ただ人がいないので成り立たない
そこで、これまで培ってきた採用の力を使います。しかも外部から引き抜くのではなく、未経験で大工を採用する。制度的な事情もあります。大工は職業紹介の対象にできないため、エージェント経由の採用ができない。だから自社で採用するしかなく、それができれば強い、という読みです。
吉岡氏も、この領域の可能性に触れていました。M&Aのカテゴリーで建設業は1位、2位が製造業。そして建設業は人手不足のため、建設業×人材という組み合わせは市場として熱い、という見立てです(建設業のM&A売却相場)。
この記事のポイント
- 出資を断られても、譲渡なら通ることがある。買い手にとっては別の投資判断になる
- 会社ごと売ると株主が損する場合、事業を子会社化して譲渡する設計がある
- 絶好調な時ほど買い手も欲しがる。売りたくない時が売り時になる
- 撤退するくらいなら売る。畳むより譲れた時点で成功という考え方
- 難しい案件には仲介が動きにくい。その場合は自分で足を動かすしかない
- ただし仲介は「自分の知らない会社」を連れてくる。併用が現実的
- 売上が少ない・利益が出ていない・人が伴わない、この3つが揃うと買い手はつかない