【売却体験談】正社員ゼロ、全員業務委託の開発会社が4.2億円で売れた ― ラグナロク 西本誠氏
- 業種
- IT・受託開発
- 譲渡形態
- 株式譲渡(100%)+アーンアウト
- 譲渡価格
- 4.2億円(アーンアウト全達成時は最大12.7億円)

「正社員が1人もいない会社は、買えますか」
M&Aの相談でときどき出る問いです。答えは「成立する。ただし買い手はかなり絞られる」でした。
ラグナロク株式会社を創業し、2024年に東証グロース上場の株式会社エフ・コード(9211)へ4.2億円で譲渡した西本誠さん。当時、メンバーは約50人。そのうち正社員はゼロでした。売却を決めていたわけでもなく、業績は右肩上がり。「売る気は全くなかった」という状態から、なぜ譲渡に至ったのか。うまくいかなかった部分も含めて伺いました。
「M&Aする気は全くなかった」
西本さんはエンジニアです。個人でAndroid・iOSのアプリを150本ほど作り、それが趣味から本業になりました。新卒で入ったのはキヤノン系の会社で、しかも配属は営業部。そこから独学でエンジニアになり、複数の開発会社を経てコインチェックでアプリ開発に携わり、2018年4月にラグナロクを設立しています。
意外なのは、創業から3年目くらいまで、ほぼ1人で回していたことです。この時期にやっていたのは、企業の技術顧問でした。ウィルゲート、朝日新聞社といった会社の開発を外から見る立場です。その中で「開発自体も西本さんのところでお願いできないか」という声が増え、4年目あたりからエンジニアを集め始めます。1人2人しかいなかったのが、次の年に10何人、その次の年に40何人になった。株主はずっと100%、最後まで一人でした。そして業績は、創業以来一度も落ちていません。
そんな状態でM&Aを考えたきっかけは、意外なほど軽いものでした。M&Aバンクというチャンネルの島袋氏と友人で、まったく関係ないYouTubeの撮影をしていたら「M&Aとか興味ないっすか」と言われ、「なくはないですよ」と答えたら「1回やってみませんか」というノリで始まった。半分ノリで始まった、というのが本人の言葉です。もともとは会社を順調に拡大させていくつもりでした。
9割が手を下ろした瞬間
希望条件を伝え、候補企業がいくつかピックアップされ、関心を示した会社と話が始まります。ここで起きたことが、この案件の最大の特徴でした。
正社員が、その時0だったんですよ。全て業務委託でやっていたので。「全員業務委託ですよ、正社員1人もいないですよ」って言った瞬間に、多分9割ぐらいが手を下ろした
手を挙げていた会社の大半が、この一点で降りました。 理由は明確です。開発会社を買う買い手が期待しているのは、事業そのものに加えてエンジニアが仲間に加わることだからです。雇用関係がないなら、その人たちが残る保証がない。結果として、最後まできちんと話をしたのはエフ・コード1社だけでした。
仲介の立場から見た「社長+業務委託」の会社
この構造について、M&A仲介の吉岡諒氏(ウィルゲート専務取締役COO)はこう整理しています。開発会社の資産は大きく2種類。素敵な技術者と、いいクライアントとの直取引です。開発領域は多重下請け構造になりやすく、間に何社挟んでいるかで中間マージンが変わる。だから「いい取引先を、なるべく上流で持っているか」と「技術者の価値」の2軸で見られます。技術者が正社員でないと、「それは自社の資産と呼んでいいのか」という論点が立ちます。ここで降りる会社は一定数ある。一方で、プロジェクトとして回っているなら雇用形態は問わない、仕組みとして成立しているならビジネスモデルとして評価する、という考え方の買い手もいます。実際、エフ・コードはそちらでした。
ロックアップの長さは「社長が何を担っているか」で決まる
あわせて吉岡氏が挙げていたのが、引き継ぎ期間(ロックアップ)の目安です。会社の主要な機能を4つに分けます。
| 機能 | 内容 |
|---|---|
| マーケティング | 案件を獲得する |
| 受注 | 契約をまとめる |
| 納品 | プロジェクトを完遂する |
| 人事 | 仲間を集める |
この4つを創業者が自ら全部やっていると、ロックアップは3年程度を求められやすい。 2つなら2年、1つなら1年。4つとも他の人が回していて社長は役員報酬を取っているだけなら、「お疲れ様でした、早く抜けていただいて大丈夫です」となることもある、という整理です。とくに危険なのは、社長が納品そのものに深く入り込んでいるケース。社長が倒れた瞬間に売上が立たなくなるため、買い手にとってリスクが大きい。逆に、社長が案件を取ってきて初期のディレクションだけ入り、納品はプロの業務委託がしっかり回している体制なら、買い手は安心できる、と説明していました(詳しくはPMIで売り手社長が果たす役割と引継ぎ期間、IT・システム開発会社のM&A売却相場)。
「10億じゃないと売らない」から始めた
規模感はこうでした。人としては約50人。システム開発なので使う先は人件費くらいしかなく、役員報酬を取ったうえで、利益がざっくり1億円。そして西本さんが最初に出した希望は明確でした。
10億じゃないと売らないよ、という話はしていた
これは強気を通すためではありません。EBITDA的に考えたら厳しいのは分かっていた。むしろそこで一度値段を出してもらって——
「だったらここに3年後でこれくらい伸ばせばこれくらいにはなるよね」っていう計算式が欲しかった
価格そのものより、価格の決まり方を知りたかった。 デューデリジェンスが始まってからも、求めていたのは計算式の根拠だったといいます。売る必要に迫られていなかったことも、姿勢に表れています。
本当に多分、最後の最後ぐらいで「やめてもいいすか」って僕、言ったんですよ
最終的な譲渡価格は4.2億円(本人が公表済み)。スキームは株式の100%譲渡に、アーンアウトを組み合わせる形になりました。
2段階イグジットを断った理由
ここが、この案件でいちばん独特な判断です。M&Aの設計では、100%譲渡+アーンアウトのほかに、初期に7〜8割だけ譲渡して残りを手元に置き、伸びた後に再評価する「2段階イグジット」という選択肢があります。西本さんの場合、この2つが最後まで残っていました。選んだのは前者。理由は金額ではありませんでした。
頑張りたいのに縛りがあるのが、僕はすごくいろんな意味で苦手で。 頑張る目標を立てるのはいいと思うんですけど、2段階って、後の何年間かを犠牲にして頑張るみたいなイメージが元々あって
もともとM&Aして辞めるつもりはまったくなく、会社を順調に伸ばしていく考えだった。100%譲渡すれば自分の会社ではなくなるので、きちんと目標設定をしたほうがいい。お金に縛られていない一方で、数値目標は達成したい。 そのうえで自分がいちばん疲れずに進められる形はどちらか、という基準で選んでいます。
アーンアウトの中身
条件は、業績が一定の水準を超えたら追加で支払う、というバーが複数設定される形でした。もともとの規模の倍になったらこれだけ伸びているからこの分、という計算式です。
- 全部達成するとプラス8.5億円ほど
- 4.2億円と合わせて、最大12.7億円になる計算
- 判定は1年ごとに4回。最後に一括ではなく、マイルストーンを刻む設計
自分が元々目標にしていた金額は、頑張れば一応できる、という設定にされていた
吉岡氏は、アーンアウトの判定を全部終わってから一気に、という形を好む人もいれば、途中でマイルストーンを引いて刻む形もあり、契約書次第だと補足しています。エフ・コードはグループインする起業家の心が一番前向きになりエネルギッシュになる方法を組んでくれる会社ではないか、と。
アーンアウトは、総額の大きさに目を奪われると危険な条件です。業績を左右する権限は、すでに買い手側にあるからです(会社売却で後悔した社長の共通点)。この案件で機能したのは、判定を年次で刻み、達成可能な水準に設計できたことが大きいと言えます(条件の詰め方は基本合意書(LOI)で決まること・決まらないことを参照)。
いちばん疲れたのは、契約書の議論だった
進める中で難しかったことを聞くと、返ってきたのは価格交渉ではありませんでした。Excelをひたすらめくるところと、弁護士同士の話になるところ。こちらも知識が足りず、弁護士が説明してくれてはいるが、何のことを話しているのだろう、ということがあった。対処法が現代的です。
その頃はずっとChatGPTと会話して、「これはどういうこと」みたいなのを毎日話していた
最終契約の条項は、表明保証や補償の範囲など、理解しないまま署名すると譲渡代金を超える請求を受けかねない領域です(最終契約(SPA)の重要条項)。分からないまま進めない、という姿勢そのものが要点だと言えます。なお、この案件で入っていたのはM&Aバンク1社。仲介ではなくFA(片方だけにつくアドバイザー)の立場でした(M&A仲介・FA・マッチングサイトの違い)。
売却後 ―「桁多いな、ウケるな」
着金した瞬間の感情を尋ねると、拍子抜けするほど淡々としていました。
あんまり何も感じなかった。銀行のスクショを撮るんですけど、「ウケるな、桁多いな」みたいな
借入もなかったため、返済のプレッシャーから解放されるという感覚もありませんでした。せっかく入ったから使わないといけない、どうしよう、とむしろ悩んだ。考えても思い浮かばず、当時の彼女(現在の奥さま)にバッグを1つ買って満足した、という話です。その後は時計と家具に凝ったそうで、クリエイター魂を感じるものにはまるタイプだと自己分析しています。最近入れた時計のアプリで見たら、買った時計は結果的にすべて値上がりしていたとのことでした。
やってよかったこと
9割以上、やってよかったというのが現時点の評価です。理由は2つ挙げていました。
相談できる相手が増えたこと。 代表を一人でやっていると、本当の意味で相談できる人がいません。親会社ができたことで、事業をどう組み立てるかを気軽に話せる相手ができた。これは精神的なメリットが大きく、経営もしやすくなったと話しています。
バックオフィスを任せられるようになったこと。 正社員がいない会社だったため、採用も経理も請求書の発行も振込も、すべて自分でやっていました。それが本部の管理に移り、法務面のサポートも受けられるようになった。大きな会社と取引する以上、以前は心細かった部分です。
想定と違ったこと
上場企業グループに入ったことによる制約は、それなりにありました。象徴的なのが、最初のプレスリリースのときの話です。
僕がXやFacebookで使っているやつが、髪の毛が真っ赤なんですよ。「これはさすがにプレスリリースで出したら株主に怒られそう」と言われて
黒髪の写真を探したら10年前のものしか出てこない。「金髪ならどうですか」と聞いたら「それならギリギリOK」だった、という顛末でした。
もうひとつ、タイミングについての率直な感想もありました。グループ入りした後も順調に伸びているので、今の段階で言ったら正直、倍くらいになっただろう。もう少しM&Aの知識があった中でやったら変わったかもしれない。ただし本人は「たられば」と言い添え、後悔はしていないと明言しています。
なぜクライアントが7年も続くのか
売却の話から少し離れますが、この会社が評価された理由が分かる部分なので触れておきます。受託開発は「3ヶ月で納品」「半年で納品」という単発案件が多く、プロジェクトが終わると売上が落ちる構造になりがちです。しかしラグナロクは違いました。一番長いところで7年ちょっと。上から並べると7年、6年、6年、5年と、全部が長く続いている。理由として挙げていたのが2つ。
大企業の新規事業に多く関わっていること。 大企業の新規事業は「3ヶ月でリリースして終わり」になりません。2年ほど市場に合うかを見るため、撤退判断が遅く、予算もある。結果として関係が長期化します。
入れ替えで入って、実際に改善していること。 他のベンダーからの切り替え依頼が多く、入れ替え後に開発速度が2.5倍になった例もあるといいます。やめる理由がなくなる、という状態です。
そして採用費用はこれまでゼロ。技術者が技術者を呼ぶ形で仲間が増えています。採用コストがかからない分、価格に転嫁せずに済み、品質・コスト・納期のバランスが良くなる。それが長期の取引につながっている、というのが吉岡氏の見立てでした。
AIについても触れられました。エンジニアは全員AIを使っており、生産効率は間違いなく上がった。AIが出すコードは1年前が偏差値40、いまは50〜55くらいのイメージ。うちのエンジニアは偏差値60〜70の人たちなので、AIの間違いをきちんと判断でき、うまく使いこなせる。AIがなかった時代にシニアがジュニアに指示を出してレビューしていた構図と同じだ、と。
これから売る人へ
最後に、これから売却を考える経営者へのメッセージを伺いました。返ってきたのは、金額の話ではありませんでした。M&Aをやった後に不安になったり、病んでしまう人も事実いると思うので、そうならないようにはきちんと考えたほうがいい。そのうえで——
ロックアップも含めて何年間か残る、一緒にやっていくというところだったら、相手さんと仲良くできるのか、馬が合うのかみたいなところは、やっぱり徹底的に重視した方がいい
それができている経営者は、圧倒的に幸せそうだと。金額の大きさより、その後の関係のほうが満足度を決めている、という実感です。
M&Aの判断は、価格の話に寄りがちです。しかし譲渡後には引き継ぎ期間が残り、その間は相手の会社の一員として過ごすことになります。トップ面談で相手を見極める意味は、そこにあります(トップ面談で買い手は社長のどこを見るか、売却後に社長が感じるロス)。
この記事のポイント
- 正社員ゼロ・全員業務委託でもM&Aは成立する。ただし買い手候補は大きく絞られる
- 引き継ぎ期間の長さは、社長がマーケ・受注・納品・人事の4機能をどれだけ担っているかで決まる
- 2段階イグジットとアーンアウトは別物。どちらが自分に合うかは、金額ではなく働き方で選べる
- アーンアウトは判定のタイミングと達成可能性を設計できるかが要点
- 最終契約の条項は、理解しないまま進めない
- 売却後の満足度を決めるのは、金額より相手との相性