【売却体験談】売上20倍でも価格は上がらなかった ― 2段階イグジットの「握り」を怠った代償 シングラー 熊谷豪氏

公開 2026年9月25日
業種
HR SaaS(採用支援)
年商
譲渡後4年で売上20倍以上
譲渡形態
株式譲渡(2段階イグジット・ロックアップ3年)
譲渡価格
非公開(2段階/過半を譲渡)
所要期間
約6ヶ月
熊谷 豪様のインタビュー
出典:社長のM&Aチャンネル

売上が20倍以上になりました。しかし、価格はそれに見合いませんでした。

熊谷豪さんは2018年、シングラー株式会社をパーソルホールディングスへ譲渡しています。2段階イグジット、ロックアップ3年。事業は大きく伸びました。それでも、こう振り返ります。

僕らはここでちょっと失敗してます

何を握っておくべきだったのか。この記事は、2段階イグジットを検討している人にとって、もっとも重要な事例です。

ピッチ準優勝から、5社が直接連絡してきた

熊谷さんはモバイル広告代理店で、内定者の頃から人事責任者を務めていました。学生が学生を面接する状態から始まり、年間4万人規模のエントリーを集めるまでに。2011年に独立し、採用コンサルティングを1人で開始。売上は最高で6,000万円ほど、ほぼ全額が粗利という状態でした。

私の時間イコール売上みたいになってくるので

2016年、かつて自分が面接して採用した優秀なエンジニアが退職したのを機に、共同創業したのがシングラーです。株式比率は50:50でした。

転機は、プロダクトができたばかりの時期に出たピッチイベントでした。準優勝した途端、状況が変わります。

もう5社全部大手人材会社なんですよ。皆さんがよく知ってるような

取締役クラスか、CVCを通して直接連絡が来た。仲介は一切入っていません。創業から1年半、プロダクトも会社もまだ出来上がっていない段階でした。だから、判断軸も価格ではありませんでした。

いくらでM&Aできるかっていうよりは、この先きちんと並走してくれる会社がどこなのかみたいな形で面談させていただいてた

知識ゼロで、要望をぶつけ続けた

M&Aの経験はまったくありませんでした。知識がないので、自分たちがやりたい世界観、こういう風に並走したい、をとにかくぶつけていくだけ。しかも、IPOを前提に考えていたため、遠慮がありませんでした。

M&AポシャってもIPOを頑張ろうみたいな形だったので、本当に結構要望をガンガン出して

出した要望が具体的です。

  • 株式比率でマイノリティになっても、ある程度の意思決定の権利は残したい
  • サービス販売にあたって、営業をどのくらい投資してくれるのか
  • 大企業では重くなりがちな情報セキュリティや管理部門の負荷をどうしてくれるのか

相手からも提案が来て、この形なら一緒にできると擦り合わせていく。ある意味セレクションが行われていた。最後までその要望に付き合ってくれたのがパーソルホールディングスだった、と。

要望をぶつけることが、そのまま選別になっています。 条件を飲める相手だけが残る、という進み方でした(トップ面談で何を確認するか)。

期間はピッチから約半年。デューデリジェンスを含めての速さです。なお、買い手側にとっても初めての経験でした。

パーソルホールディングスも大きな会社のM&Aはしてるんですけど、スタートアップのM&Aは多分我々が初なんですよね

パーソル側も「よく分からなかった」と後日語ったそうです。専門家は、スタートアップ界隈で有名な弁護士1名のみ。2018年当時は今ほどM&Aブームではなく、市場にいるプレイヤーのほとんどにノウハウがなかった。弁護士はつけたほうがいいが、それ以外にやるべきことも分かっていなかった、と。

本題 ―― 何を握らなかったのか

条件は、買い手が50%以上を取得し、残りをロックアップ終了時に売却する2段階イグジットでした。ロックアップが終わる年にもう一度DDを行い、その算定価格で残りを売る。この形を選んだ理由は合理的です。パーソルの顧客基盤と営業リソースを考えれば、事業は伸びる。伸びた状態で評価してもらうほうが、リターンもモチベーションも大きい。

そして実際に伸びました。ロックアップ3年+最終年のDDで計4年在籍し、その間に売上は20倍以上に。しかし、価格はそうなりませんでした。

このくらいになったらこのバリュエーションにする、みたいな取り決めを最初に行っていなかったんですよ

売上が20倍に増えているのだからバリュエーションも20倍に増やしてほしいと思いつつも、そんなことにはならず、最後は相当揉めた。

なぜ揉めるのか ―― 利益の切り分け問題

ここが、この記事でもっとも実務的な部分です。売上が伸びても、価格の根拠になるのは通常、利益です。そしてその利益が、算出できませんでした。

当時一番我々が困ったのが、利益の算出方法がすごく難しいんですよ

売上は出る。しかしコストの部分が、シングラーでかかっているコストなのか、パーソルホールディングスでかかっているコストなのか、切り分けがめちゃくちゃ難しい。具体例が挙げられています。パーソルが担いで売ってくれた際に、営業人員の人件費が全部パーソル持ちになると、シングラーの利益率はめちゃくちゃ高くなってしまう。それを一切コストとして見ないのはどうなのか。

親会社のリソースで売れた分を、子会社の利益として全額カウントしてよいのか。この論点が、事前に決まっていませんでした。取り決めや目線合わせができていればいいが、基本、後出しになると難しい、と。

シナジーが効くほど、利益の帰属が曖昧になります。 2段階イグジットは「伸びたら報われる」設計ですが、その「伸び」を誰の貢献とみなすかが決まっていないと、成功そのものが争点になります(株式譲渡契約で確認すべき条項、価格交渉の進め方)。

解決策は、すでに他の事例にある

この問題に、明確な答えを出している売り手がいます。

仕掛け 内容
基準の固定 「この利益を超えたらいくら」というバーを契約書で設定
経費の限定 お互いが合意した経費しか算入しない
裁量の担保 経営委任契約で、経費の使い方を命令されない形にする

熊谷さんが困った「コストの切り分け」は、まさに2つ目の条項で潰せる問題です。熊谷さん自身の結論も、そこに向かっています。2段階で売却するというのは間違っていなかった。しかし2段階目の握りをしっかりやっておくべきだった。そして——

変に複雑にしない方が、シンプルにやった方がいいなというのは感じました

吉岡諒氏(ウィルゲート専務取締役COO)も、1段階目の売却時に2段階目を見据えて目線を合わせ、契約書に2段階目についての言及を入れておくべきだ、と補足しています。

2段階イグジットの価値は、1段階目の契約書で決まります。 後から交渉する余地はほとんどありません。

株式交換という選択肢

譲渡先の規模も論点でした。パーソルホールディングスは時価総額5,000億円規模。株式交換の話も出たといいます。吉岡氏の整理です。100%株式交換だと個人としてのキャッシュインが成立時にまったくないのでイレギュラー。半分キャッシュ、半分株式という形もあるが、株価が上がるか下がるかの予想はつきづらい。その会社の戦略への共感や惚れ込みが強くないと、「一旦手堅く現金で」となりやすい。なお、買い手の規模が大きすぎると、株式交換では自社の成長が株価にほとんど反映されないという問題もあります。

売却後 ―― 次がなければ「心に穴が開いていた」

売却後の生活は、役員報酬もあったので大きくは変わらなかったといいます。浪費もなく、車を買い換えることもない。キャッシュの使い先はエンジェル投資と、リゾートワークスの買収でした。シングラー時代に借入はなかった。

精神面については、率直でした。ロックアップが切れて退任した後、すぐにリゾートワークスを始められたのは良かった。もしこれがなかったら——

精神的な部分で言うと相当不安定になってたんじゃないかなって……心にぽっかり穴が開くというか

燃え尽き症候群のようになっていたかもしれない。これは人による。リゾートで暮らす人もいるが、自分は走っていないといけないタイプで、次がないと穴が開く。どれが正解というものはなく、その選択ができる自由がある、と。

現在 ―― 買う側へ

4年のロックアップを終えた熊谷さんは、現在リゾートワークスの取締役副社長を務めています。同社の柳田将司氏とは17年来の付き合いで、柳田氏もリアライブを売却した経験者。2人でリゾートワークスを買収し、副社長として一緒に始めた形です。

売却経験者2人で立ち上げた会社なので、エクイティファイナンスを一切せずにやっていける。資金調達で経営陣が走り回ることも、VCに株式を渡してあれこれ言われることもない。まとまったお金は力を持つ、それで何をするかを考えられるのはまったく違う、と。

売却経験者が組んで買い手側に回る。

売った経験は、次に買うときの資産になります。


この記事のポイント

  • 2段階イグジットは、1段階目の契約書で価値が決まる。後から交渉する余地はない
  • 「このくらいになったらこのバリュエーション」という取り決めを最初に入れる
  • 売上が伸びても、価格の根拠になるのは利益。その利益が算出できないと揉める
  • 最大の争点はコストの帰属。親会社のリソースで売れた分をどう扱うか
  • 対策は「お互いが合意した経費しか算入しない」という条項(他の事例で実装されている)
  • シナジーが効くほど、利益の帰属は曖昧になる。成功そのものが争点になり得る
  • 要望をぶつけることは、そのまま買い手の選別になる
  • 買い手が大きすぎると、株式交換では自社の成長が株価に反映されにくい
  • 売却後に次がないと燃え尽きるタイプかどうかを、自分で知っておく

話し手

熊谷 豪くまがい ごう

株式会社リゾートワークス 取締役副社長/シングラー株式会社 創業者

大学卒業後、ベンチャーのモバイル広告代理店に入社し、人事採用業務に従事。2016年11月シングラー株式会社を設立し、面接CX(候補者体験)を高めて内定辞退を防ぐ「HRアナリスト」を発表。2018年パーソルホールディングスへM&A。2022年7月に株式会社リゾートワークス取締役就任。

この記事のもとになった動画

社長のM&Aチャンネル(@shacho-MA)で公開しているインタビューです。 記事に書ききれなかった細かなやり取りは、動画でご覧いただけます。

  1. 第1話

    プロダクトができたて出でたピッチで準優勝した途端にVCやM&Aの連絡が殺到!超短期間で成功した秘訣

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  2. 第2話

    ピッチで準優勝してから半年で人材大手パーソルに売却成功!2段階イグジットはこれで失敗を避けるべきだった!

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  3. 第3話

    4年で20倍以上に!M&A売却後は、別の売却経験者とともに買収側になった成功の秘訣!

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